帝都では国の絶対的権力者である神皇とその血族を神と同等のものとして敬うのが常識である。現人神、という言葉も当たり前のように使われているし、桜桃もそういうものだと思っていた。
「神の存在を唯一のものであると認識している西国と比べると、同じに見えるかもな」
「神さまがたくさんいる、って概念は一緒なんだね」そうだと湾は応え、あらためて桜桃の方へ顔を向ける。
「皇一族が神の血縁である、というのは事実で国民もそれを知っている。けれど、北海大陸には皇一族と血を通わせた神よりも最上の神……至高神と契りを結んだ一族がいたんだ」
なのに、湾は国を揺るがすような重大なことを淡々と伝えている。
神皇帝が縁を結んだ神よりも身分の高い神がいて、皇一族のような血縁関係が成立した一族……? 桜桃は目の前が真っ白になる錯覚に陥る。「……そんな」
「至高神と契約を交わした一族のことをカイムの民はカシケキクと呼んだ。古いにしえの言葉で天の神に愛されたもの、という意味だ。それが身に神を宿らせるという天神の娘、の由来」桜桃をさんざん苛んできた天神の娘という言葉。それは天の神に愛されたもの。それは身に神を宿らせるもの。桜桃の母、セツはそんなカイムの民を統べる巫女姫だった。巫女姫ということはつまりその身に神を宿らせていたということだから……?
悶々と考え込む桜桃に、湾が簡潔に告げる。「セツさまは帝都では“雪(せつ)”と名乗っていたけれど。ほんとうは“契(セツ)”という名を持つ天神の娘だったってわけ。そして」
いつもは“嬢ちゃん”としか呼ばない湾が、真面目な表情で名を囁く。
「空我桜桃。君もまた、その至高神の血統を継ぐ、天神の娘に違いはない」
「――だから、殺されそうになったの?」湾の話に不審なところはない。むしろ、すんなり受け入れられてしまった。どうして自分が天神の娘と呼ばれているのか。どうして命を狙われたのか。
「あたしが、この国の頂点にいる神皇帝よりも貴い血を持っているから、皇一族が内密に処分しようとしたの?」
国の最高権力者であ
とはいえ、華族令嬢と変わらない彼女の母がカシケキクの巫女姫として北海大陸に君臨していたという点や、出奔中とはいえ父親がいまをときめく帝都清華の五公家の頂点にいるという点、『雪』の部族から名治神皇と結ばれた篁の一族からやって来た少女が傍に控えているという点を考えると、天神の娘は『雨』からすれば脅威になり得る存在ではある。だから誰も彼もが彼女を狙っている。殺すため、利用するため、勝手な理由で。 だが、慈雨がいま一番脅威に思っているのは、逆さ斎のちからを持つ四季だ。天神の娘と始祖神の末裔が生活する隣室にいる彼女はすでにいま起きている全容を掴んでいるのではないだろうか。いまのところ天神の娘たちと行動を共にしており、特に不審なところはないが、同室の桂也乃が負傷して部屋から出ているいまなら、なんらかの行動を起こしてもおかしくはない。できれば彼女と敵対することだけは避けたいが……「それに、麗は何をしたいのか……考えてもきりがないわ」 帝都清華の五公家にいながら天神の娘と接触を避けている少女、藤諏訪麗。藤諏訪家は清華五公家の末席で、苦労して空我家の後継ぎ息子との婚約を漕ぎつけたようだが、先日天神の娘が行方知れずとなってから見事に白紙撤回されたときく。 藤諏訪家は以前から古都律華とも接触を図っていたようだが、婚約が白紙にされてからの麗の態度の豹変ぶりに、鬼造姉妹も戸惑っているようだ。 婚約破棄の原因ともなった天神の娘に快い感情を持っていないであろう彼女は帝都清華に属しながら古都律華と手を組んでいる。だが、桂也乃が負傷してからの麗は天神の娘を見張っているように感じられる。桂也乃の代わりに。となると、帝都清華との縁も続いているのだろう。殺したいほど憎んでいてもおかしくないだろに、能面のように無表情になって天神の娘を凝視していた彼女は……「ばかみたい」 天神の娘と始祖神の縁者がこの地にやってきたというだけでこれほどの動きが急激に起こることを予測していなかった自分にも苛立つ。だが、冬将軍が留まりつづけている北の大地に春を喚(よ)ぶ鍵となる人物たちの登場は閉塞感の漂っていた日常にひとすじの光を差したといっても過言ではないだろう。「いくら
同じカイムの民とはいえ大陸の開拓者である古都律華に近代化を促された『雨』と皇一族と友好的で保守的な『雪』とでは性格が異なる。雁はそんな中でも比較的寛容な性格だったが、それでも慈雨に譲れない主張を持っていた。 それが、天女伝説。「……彼女は天女を信じてた。でも、この地にやってきたのは帝都の神と縁を結んだ少女と、名ばかりの天神の娘。きっと、絶望して憤って、あんな莫迦な真似をしたのよ」 天神の娘が天女であるなら。神々のご機嫌をとるために女学校の生徒たちが犠牲にならずにすむ。天神の娘が天女でないのなら、彼女だけを人柱にして神に捧げればカシケキクのちからで春を招けるのではないか。その考えが、猟銃の引き金を引かせる発端になったのかもしれない。「だとしたら、愚かね」 少女は慈雨を挑発するように口角を持ち上げ、囁く。「古都律華の連中は何がなんでも彼女を殺そうとしているわ。そっちと繋がっていた可能性だって否定できないじゃない」 「それはないわね」 挑発に乗ることもせず、慈雨は冷静に分析する。目の前にいる少女は、天神の娘を政治的な理由で消したいと考えている古都律華に属している。そこにカイムの民が介入する余地は存在しない。放っておけば慈雨が何もしなくても彼女は抹殺されてしまうだろう。 ――それはいただけない。「雁は純粋な『雪』よ。何者かに操られていたなら話はまた変わるかもしれないけど、彼女はあなたたちにも弁解しないんでしょう? ならば、黙秘しつづけているのは、他の『雪』に迷惑をかけたくないからじゃなくて?」 「そういうことにしておいてあげるわ」 そう言って、少女は慈雨の部屋から風のように飛び出していく。慈雨は彼女が何を掴んだのか、訝しく思いながらも、そのままにしておく。どうせ真実を知ったところで何もできないだろう。 古都律華の鬼造は天神の娘を自分たちで殺めるつもりはなさそうだが、本音としてはとっとと消してしまいたいようだ。だから雁の事件も憲兵に通報せず、自分たちで処分しようとしている。彼女を天女のいなくなった土地へ春を呼び込むための生贄にして。 先
* * * ひそひそ、ひそひそ。 ――ずるいわ、校長の縁戚だからって自由に学校の外へ行き来できるなんて。 ――いったい外に出て何をしているのかしら、こういうときだけあの姉妹は個別に動くのよね。 ――恋人との逢瀬? まさか! そんなはしたないことが華族令嬢に許されるわけないじゃない…… 周囲で囁かれる心もとない噂話を無視して、少女は主の片割れを失った部屋の扉を叩く。「梧さん、いらっしゃるかしら?」 「あら、今夜はひとりなのね」 すぐさま、扉が開かれ、少女は中へ導かれる。慈雨は噂話に躍らされるような娘ではない。少女はホッとして部屋に足を踏み入れる。 四方に蝋燭が灯された白い部屋の中はがらんとしている。床の上には高級そうな毛皮の黒い絨毯が敷かれており、温かそうだが、窓を隠すように掛けられている薄青の緞帳が、その印象を寒々しいものへと変容させている。 青は『雨』の部族にとって神聖な色だ。青き霧、という神謡の言葉からアオギリの姓を携わり名乗ることを許された慈雨の遠い祖先はこの潤蕊の影の支配者ともいえた。いまでは目の前の少女の親族が好き勝手しているが、古都律華は既に落ちぶれていると言っても過言ではない。いつまで保つかは微妙なところだと慈雨は心の奥で嘲笑する。 この少女の名はどちらだったか。『雨』の部族である雫石(しずくいし)を母に持つ姉妹には慈雨同様、雨にまつわる名を授けられていた。だが、慈雨からすればどちらでも構わない。彼女たちはカイムの血を引いてはいるが、神々を識(し)ることのできない常人だ。慈雨からすれば毒にも薬にもならない存在である。「ええ、準備ができたことを報せにきただけですから」 慈雨は少女から用件をきくと、得心した様子で木製の引出しから丸い硝子玉のようなものを手渡す。「雁も、気の毒ね」 「ほんとうに」 ――神々に認められた純血の乙女がこの学校を出る時は、結婚する時。 たとえそれが不本意な退学だからといっても、この大陸の神々は例外を認めない
「あのとき、寒河江さんは抵抗する間もなく学校の私兵に連行されていったけど……」 学校内には華族令嬢など身分の高い生徒もいるため、鬼造に雇われた巡回私兵があちらこちらにいる。桂也乃を撃ったであろう猟銃を手に寮内に入った雁を彼らが容疑者だと認識し、捕らえたのは当然のことである。 四季は軽く頷いて、小声でふたりに囁く。「どうやら鬼造姉妹が捕まった寒河江雁の世話をしているみたいだ」 「校長の孫娘たちか」 古都律華の御三家で、北海大陸の潤蕊市一帯を多額の金で買い取り我が物にしているという鬼造一族。この女学校の校長の息子が『雨』の部族の女性との間に産んだのが十六歳のみぞれと十五歳のあられという姉妹である。 小環はふむ、と納得して四季の意見をきく。「鬼造の方も不祥事を表沙汰にするのを避けたいだろうから憲兵へ通報はしていないはずだ。だとしたら、まだ校内で彼女は拘束されていると考えていいと思う」 「俺も同意見だ」 至極あっさりと俺、と口にする小環を見て桜桃が焦った表情を見せているが、四季はまったく気にすることなく話をつづけている。「……だとすると、彼女はたぶん地下の座敷牢にいると思う」 「座敷牢っ?」 そんなものがあるの? と桜桃が目を丸くして四季を見つめる。小環もまた、この学校にそのようなものがあるのかと怪訝そうな表情をあからさまにしている。「この建物はもともと学校じゃなくて、カイムの民の公的な施設だったからね。その名残だよ」 てっきり公民館や図書館程度の施設だと考えていた桜桃は、公的な施設と呼ぶにはどこか物騒な軍事施設や病院、罪人を裁くための独自の施設も一緒に併設されていたことを知り、そうなんだと感嘆の声をあげる。 広大な土地があるのにひとつの場所に住居や施設が集約されているのは、ここが冬になると雪に覆われる大陸で移動するのにも膨大な時間がかかるからだという。かつては馬車を走らせる道も整備されていなかったというから、さながら陸の孤島である。 いまも帝都と比べれば開墾の進んでいない北の大地だが、それでもカイムの民が暮らして
* * * 白で統一された寮内はどこも無機質だが、生徒たちが二人一組で生活をする部屋だけはそれぞれの個性が光っている。桂也乃と四季の部屋は、桂也乃の趣味なのか、緞帳の色が淡い撫子色で、床の敷物も薄紅色で、どちらにも愛らしい小花模様が編み込まれており、部屋全体を明るく華やいだ雰囲気にしていた。 この学校に入ってそろそろ半月が経つというのに、桜桃は他の生徒たちが生活する部屋に足を運んだことがなかった。小環はこの部屋に行ったことがあるようで、「相変わらずの少女趣味だな」などと苦笑いをしている。 だが、その部屋の主のひとりである桂也乃はここにはない。 桜桃を庇って銃弾を受けた桂也乃の意識はその後すぐに戻ったものの、失血量が多かったため、立ち上がり動くことができなくなってしまったのだ。無理に動くと治りも悪くなると校医に判断され、いまも包帯を巻かれたまま救護室での生活を余儀なくされている。 とはいえ、撃たれて半日してから桜桃たちが彼女の見舞いに行ったときにはすでに桂也乃は救護室の寝台を独り占めして優雅に本を読んでいた。彼女のそんな様子を見て、桜桃はようやく命に関わる怪我ではないことに気づけたようだ。 その傍らには筆記用具と封緘のされた撫子色の封筒も転がっていた。小環が問いかけると、暇だから帝都のお姉さまに愚痴っちゃったの、と悪戯を思いついた子どものように今日の最終の郵便船に間に合うよう無理を押しつけて彼に託したのだ。小環は自分だけに見せられた宛先を確認し、桜桃と四季を残して桂也乃の依頼を遂行したのだ……空我本宅の住所で暮らす、うら若き未亡人で柚葉の実姉である前子爵夫人、黒多梅子へ届けるために。 あれから。 寒河江雁が猟銃で黒多桂也乃を撃ったという事件から三日が経っていた。あの手紙はもう桂也乃の義姉で桜桃の異母姉、梅子のもとに渡っただろうか。 小環は混乱を避けるために桜桃に桂也乃が異母姉兄たちに手紙を送ったことを伝えていない。桂也乃もまた、桜桃にこれ以上心配させないよう小環に宛先を隠して手紙を託したに違いない。手紙の中身は気になるが、事件のことを報せただけにすぎないだろう。 桂也乃の
小環からの文を読んだ湾は思わず芝桜の咲き誇る庭を臨める窓の向こうへ投げ捨てたくなる衝動にかられた。だが、そのまま投げ捨てるわけにもいかず、渋々細かく破り捨てて準備しておいた特殊な水に溶かしこむ。 その様子を見ていた柚葉は彼の態度を一瞥して、つまらなそうに呟く。「黒多子爵令嬢が撃たれたそうですね」 「……知ってたのか」 「姉上への手紙にそう書かれていました」 柚葉は懐に入れておいた黒椿の印が押された撫子色の封筒をこれ見よがしに差し出す。奪い取り、便箋に記された文字を辿った湾は黙って千切り、水の中へ散らしていく。 黒多桂也乃と柚葉の姉、梅子は桜桃が北海大陸へ渡る以前から文通をしていたらしい。桂也乃は梅子を姉のように慕い、梅子もまた神皇の異母妹の娘である素直で朗らかな桂也乃を認めていたという。愛妾の娘である異母妹の桜桃よりもずっと姉妹のように見えたことを思い出し、柚葉は苦笑する。「どういうめぐりあわせか、因縁深い相手ばかりがゆすらの周りにいるようです」 柚葉は梅子と湾からそれぞれ情報を受け取っている。梅子は桂也乃からの手紙をそのまま柚葉に渡すが、湾は皇一族の機密に関わるからと口頭で伝えてくる。まるで渡すべき情報を選んでいるかのようで気に食わないが、現時点で柚葉は皇一族を敵に回そうとは考えていないため、渋々、桂也乃の手紙と照らし合わせながら湾の言葉を確認していく。「犯人はすでに捕まっている」 「ええ。『雪』の部族だとは思いもしませんでしたが」 桂也乃の手紙にも、小環からのそっけない文書にも、寒河江雁という見知らぬ少女の名が記されていた。彼女が桜桃を狙って猟銃を発砲したという。だが、なぜ彼女が桜桃を狙ったのかは捕まってからも黙秘しているようで、真意はわからないままだ。 桜桃を庇って肩を撃たれた桂也乃は、一時的に意識を失ったもののすぐに回復し、救護室から筆を走らせその日の郵便船で間に合うように手紙を書き上げたのだ。五日に一度の海軍定期船とは異なり、民間の郵便船は三日に一度の頻度で運航されているので急ぎの場合は便利である。とはいえ天候に左右されやすい郵便船は